【県大jiman】特別対談号 研究内容について(中井先生)
城郭研究へのこだわり
県大jimanスタッフ:先生は中世・近世の城郭と、最近は大名墓について研究されていますよね。まずは研究へのこだわりについて語っていただければと思います。
中井:お城の遺跡は地表面に残っているのだけれども、それを見ることができる人は限られているんですよね。発掘をして遺構という建物の跡を検出しないと、どんな建物が建っていたのかっていうのはわからない。例えば年代で言うと、実は「豊臣秀吉のお城だ」って言われていたのが徳川家康かもしれないこともありますからね。今地表面に残っているお城自体が、これまで言われてきたお城の年代とは必ずしも限らないし、どんなものが建っていたのかもわからない、だから人である私たちが発掘しないといけない。
私が学生時代だったときの考古学は基本的には『平安時代ぐらいまでが考古学のテリトリー、それ以後は文献史学のテリトリー』ということで、中世や近世のお城を考古学で分析するということは誰も考えなかったし、誰もしなかった。だからこそ大事だろうし、やらなければならないということで続けてきたのが、僕が城に対する研究の1つのスタンスなのかな。
大名墓研究の魅力
中井:大名の墓についてはね、これはすごく面白いと思っているのね。僕は特に戦国時代から織田・豊臣にかけての城を研究していくなかで、それまで単に戦うためだけの城だったものが、織田・豊臣政権からは自分たちの統一政権のシンボルとして、「見せる」という意識を強く持ったものに変わってきた。考古学は、歴史の精神的な部分を明らかにすることに関しては弱いのかもしれないけど、金箔瓦や巨大な石を使った石垣といったものは、明らかに権威を見せるためのものだと思うんですよね。それまでの城とは全く違っています。
近江でいえば、中世の大名である六角氏の墓なんてどこにあるかわからない。ところが突然近世の大名は、4メートルのような物凄く大きな墓を造ったんです。見せようとしている。だから城とすごく似ているんですよ。それは大名のそれぞれの家の在り方みたいなものを示してくれる。そういう意味では、お城と一緒で当時の政権や支配者側の理屈がよくわかるというところが大名の墓にはあって、最近はすごく興味があるんですよね。
県大jimanスタッフ:大名墓のなかでも今注目しているお墓、もしくはここに注目してほしいというポイントはありますか。
中井:彦根藩で言うと、井伊家のお墓ってすごく教科書的なんですよ。江戸で亡くなると江戸に墓を造る、彦根で亡くなると彦根で墓を造る。江戸時代の大名って、参勤交代のために必ず江戸に住むけれども、じゃあ江戸で亡くなったらどうするかっていうと、ちゃんと江戸に墓を造る。
ところが、土佐の山内家だと、藩主が江戸で亡くなっても塩漬けにして土佐まで持って帰るわけですよ。それは「帰葬」っていうけれども、江戸に墓を造らずに必ず土佐に墓を造る。外様大名の特徴なのかもしれないけれども、そのことから土佐に対する意識が強いというかね、彼らの領国に対する意識が凄く強いというのがわかるとやっぱり面白いですね。
研究のきっかけ
県大jimanスタッフ:中井先生がお城に興味を持ったのは小学5年生のときですよね。研究しようと思ったのは、大学生になってからですか。
中井:僕は今でも覚えているけど、高校1年の時には既に、テントを持って四国一周して城を見に行ったり、北海道はテントだと凍え死ぬので、春にユースホステルという安い宿泊施設に泊まりながら見に行ったりといったことをやっていました。大学でやっぱりお城を研究したいなという思いはあったのだけれど、実は僕高校時代はずっと剣道をやっていたから、剣道で大学行きたいとも思っていたんだよね。どっちを取るのかっていうのですごく悩んで、(剣道が)強い大学がたまたま東京だったから、親が、「そんな大阪・京都に大学が腐るほどあるのになんでわざわざ東京へ行くのか」と言うので、やっぱり小さいときから好きやったお城の研究をしたいなと思って大学に入った。それから僕は考古学研究会に入って、考古学を専攻して考古学以外のことはしないってきっぱり決めた。
大学がたまたま伏見城に近いところで、そこで城の発掘があることを知ってもう嬉しくってね。一年生の時から毎日発掘に行っていました。
発掘はとにかく、もう本当に面白かったね。いろんなことを学べました。もちろん大学でも学べたのだけれども、やっぱり今の自分があるっていうのは現場でそうやって学べたおかげかなと思っているんです。
考古学の魅力
県大jimanスタッフ:先生はずっと考古学を研究されてきたわけですが、先生から見た考古学の魅力とはなんでしょうか。
中井:建前論抜きの本音でいうと、考古学はある意味、宝探しのようなものだと思うんですよ。自分の手で掘って出てきたものが歴史の通説を覆すかもしれない、という点でね。ただ、それは金銀財宝という意味の宝探しではなくて、自分が掘って出てきたもので、今まで言われてきた歴史とは違うことが分かるものだったらこれすごいよなぁって思うんですよ。それがやっぱり一番の魅力じゃないかなぁと。
印象に残っている発掘調査のエピソード
県大jimanスタッフ:今まで本当にたくさんの発掘調査に参加されてきたと思いますが、その中で一番印象に残っている発掘調査、又はこれが出て嬉しかったというエピソードはありますか。
中井:これが出たっていうことよりも、『一人で仕切る』ことかな。学生時代は言われたことを言われたようにするんです。「ここやっといて」っていうのを「はい、わかりました」、「ここの図面取っといて」っていうのを「はい、わかりました」っていう。その中で先輩や調査員さんから図面の取り方や機械の使い方を教えてもらったりして学んでいくわけだよね。だけど「ここを測っといて」とか「ここにこういうトレンチを設定しよう」っていうのは僕らができるわけではないわけですよね、学生時代は。それが就職して初めて「ここにこういう施設ができるから発掘をしなさい」ということで、まず手始めに文化庁に発掘調査の通知を上げなければならなかった。これが僕にとって印象深い。誰も指導してくれる人がいないから、「一人でやらなあかん」ってすごくビビるわけですよ。これでもしなにかをぶっ潰したら、ぶっ潰したということで名前が残ってしまうんじゃないかと。「米原の中井が破壊しよった」みたいな話になったらこれまずいよなぁと思うと、すごく怖かった。
やっぱり僕にとって一番忘れられないのは、磯山城遺跡の発掘調査かな。米原に就職して一番最初の現場だったんだけれども、当時滋賀県では大変珍しい、縄文時代早期の屈葬人骨が出てきたのはやっぱり面白かった。
先生から見た発掘調査の測量技術
中井:発掘の技術は非常に発達したし、多くを重機のような機械がやってくれるようになったんだけども、最後の土坑といったもともとの遺構は、ガリ(三角ホー)※1でかいて移植ゴテ※2で掘っていかないといけない。これは百年前の発掘と変わらない。
でも今、お年寄りでもガリで草取りをする人はほとんど見ない。僕らはあくまでもそういった園芸用道具を発掘の道具に転用しているだけで、もともと発掘の機材で作られたわけではないんです。そのうち発掘で使っている日曜大工のものが店からなくなったらどうしよう、発掘もうできないようになるんじゃないかって思うんだよね。これだけ世の中がデジタル化している中で、発掘はそういった意味で本当にアナログなものかもしれない。
※1 除草のための、三角形の刃が付いた農具。
※2 野菜や草花を移植するための、小型のシャベル。
県大jimanスタッフ:デジタルの機械も今一杯増えていますよね。今、赤色立体地図※3が山城の発見にとても役立っていると聞きました。その印象ってどうですか。
※3 地形を立体的に確認できる地図。傾斜量を赤色の彩度で、尾根谷度を明度にして調整する。
中井:僕なんかは山城の図面取るために舐めるように山を歩くわけですよ。嫌になるときもあるよ、本当に。それで図面を描くわけ。赤色立体地図というのは、隙間があったらレーザーで全部隙間を通して地上自体を撮るわけです。今までの航空測量は上から写真撮るだけだったから、木の上部しか見えないわけですよ。レーザーは地上にまで到達するんです。
それが、パッと(赤色立体地図を)見れば、「ここに古い道があるんちゃうか」っていうのは全部わかる。それはそれですごいことなんだけれども、やっぱり機械ですから「ここは戦国時代の遺構やで」とか「ここは近代になって削ったやつですよ」なんていうのはわからないんですよ。だから平たいところはレーザーで測るけども、それが城かどうかっていう判断はレーザーではできないので、結局誰がするかって言ったら人間ですよ。けれどもすごく使い勝手が良くて、行かなくていいところは行かなくていいことが分かったのがすごく嬉しい。今までは、詳細がわからないから急なところを降りていってもなんにもなかった、しかもまた上に上がらないといけない。それがもう、今回赤色立体地図で「ここは行く必要ないよな」、「ここは疑わしいから行こう」っていう判断ができるようになったのはすごくありがたい。
研究エピソード
中井:とにかく若い頃は、自腹を切ってでも遠いところに行って見て、できるだけ自分で情報収集をしてそれが論文書くときの骨子になっていくわけですよね。それをずっとやっていけば、ある程度年を重ねたときに「お城やってるのに中井っていうのがいたよな」というように覚えてもらえると、例えばその次は情報が向こうから来てくれる。「うち今こんなん出てるけど見にけえへんか」って。これはすごくありがたいよね。